『ダギ一への手紙』
(がんを患う子どもへの手紙)
キューブラー・口ス著 アグネスチャソ訳
シャンティー・ニラヤ(ヒーリングセンター)によって、
がんに冒されていた9歳の男の子への私への手紙の返事が出版されました。
私宛の手紙には、とても心をうたれる三つの質問がありました。
”いのち”って、何? 死って、何? どうして、小さな子どもたちが死ななければならないの? |
わたしは、娘のフェルトペンを借りて、簡単な言葉にイラストをそえて、彼宛の返事を書き送りました。
彼は、大変喜んでくれただけでなく、エリザベスから特別な絵本のようなかわいい手紙をもらったと、
ほこりをもってくれたようです。
自分の両親はもちろん、おなじような治らない病気の子どもを持っている親たちにも見せたそうです。
彼は、この手紙を出版することに賛成してくれました。
この手紙をとおして、子どもたちが何よりも大切な疑問を理解できるようにと。
エリザベス
. ダギ一へ あなたのために、1978年5月の最後の日に書きました。 これは、いのちについてのお話です。 たとえばあらし 春にまく種 夏にさく花 そして、秋のみのりの事です。 これは、死についてのお話でもあります。 早くくるばあいもあれば おそくくるばあいもある。 いったいこれは、どういうことなのか お話しましょう。 |
想像してごらん いのちのはじまりと すべてをつくられた神さまのこと。 神さまはまるで、太陽のようだね。 世界中をてらして 私たちをあたためたり 花をそだてたり たとえ雲のうらにかくれて 見ることができなくても 太陽の光は、いつも地球をつつんでるの。 |
神さまは いつでも 私たちを 見てる。 神さまの愛は いつも私たちをてらしてる。 私たちの大きさは、かんけいないの。 大きくても 小さくても 神さまはおなじように愛する。 そして、だれも その愛をとめることは できないの。 |
人はまるで、種のようにうまれてくる。 たとえば、たんぽぽの種のように 野原にとばされて どぶにおちてしまうもの。 きれいな家のしばふにおちるもの 花だんの上におちるもの・・・・・・。 |
私たちも そうよ。 お金もちの家に うまれる人。 まずしい家に うまれる人。 こじいんで うまれる人。 うまれたときから おなかをすかせている子。 死にそうな赤ちゃん。 のぞまれて お父さん お母さんに愛される子。 えらばれて 養子にひきとってもらえる子。 人は こういうことを 人生は、かけのようだ というのです。 |
でも、わすれてはいけないよ。 神さまは、たんぽぽがどこに とばされるかを きめる 風を おこしていること。 神さまは、たんぽぽの種を たいせつにおもっているのと おなじように、すべてのいきもの とくに、子どもたちをたいせつに おもっているのです。 だから、人生には ぐうぜんというものはないのです。 |
神さまはさべつしません。 無条件に愛してくださる。 神さまは 私たちのことを よく わかっていらっしゃる。 神さまはきめつけたり なさらない。 神さまは 愛そのものなのです。 |
きみと神さまが おおぜいの 中から いまの、お父さん お母さんを えらんだのです。 きみを とおして お父さん お母さんは いろいろなことを 学び、成長するの。 そして、お父さん お母さんは きみの 先生にも なるのよ。 |
人生は学校みたいなもの。 いろいろなことを まなべるの。 たとえば、まわりの人たちと うまくやっていくこと。 自分の気持ちを 理解すること。 自分に、そして 人に 正直でいること。 そして、人に 愛を あたえたり 人から 愛を もらったりすること。 そして、こうしたテストに ぜんぶ合格したら (ほんとの学校みたいだね) 私たちは卒業できるのです。 |
つまり、ほんとうの家にかえることを ゆるされるのです。 それは、神さまのところ。 そこは、私たちがもともとすんでいたところ。 そして、愛する人たちと であったところなのです。 そう、まるで 卒業式のあとの 家族との再会のようなものだね。 それが、私たちの死ぬときです。 仕事がおわって からだをぬぎすてて つぎのところへすすむことが できるのです。 |
冬のあいだ 木にはいのちがあるように見えないね。 でも、春になると小さなはっぱが ひとつ ふたつと、かおをだす。 そして、夏のおわりに 実を いっぱいつけて 木はやくそくをまもり、やくめをはたすの。 やがて 秋がくると ひとつ ふたつと、また はっぱがおちていく。 そして、木は 冬やすみに はいるのです。 |
花によっては ほんの みじかいあいだしか さかないものがあります。 でも、みんな その花を見て 春の予感と 希望を感じ、 花を愛す。 花はさきおわると かれて 死んでしまいます。 でも、花はやらなければならない やくめを十分にはたしたのです。 |
花によっては とても長くさくものもある。 人は それになれて、 あたりまえのようにおもい、 花が そこにあることさえ、忘れてしまう。 まるで、人々が 公園のベンチにすわっている おじいちゃん おばあちゃんを 忘れてしまうかのように。 いつのまにか だれも気づかないうちに いなくなってしまうのです。 |
人生は みんな 輪のようだね。 夜の つぎには 朝。 冬の つぎには 春。 船が 水平線のむこうに きえても なくなったのではなく ただ 見えなくなっただけ。 神さまは ご自分でつくった すべてのものを、みまもってる。 地球も 太陽も 木も 花も。 そして、人生という学校を 卒業しなければならない人々も。 |
この世で やらなければいけないことを ぜんぶできたら 私たちは からだをぬぎすてることが ゆるされるのです。 そのからだは まるで さなぎが ちょうちょを とじこめているように 私たちの たましいを とじこめているの。 そして、ちょうどいい時期がくると 私たちは からだからでて 自由になれるのです。 もう 痛いこともなく こわがることもなく なやむこともない。 |
まるで、きれいな ちょうちょのように 自由に 神さまのお家に かえれるのです。 そこでは ひとりぼっちには ぜったいならない。 どんどん 成長して 歌ったり おどったり 私たちより先に さなぎをぬいだ 大好きな人たちと いられるのです。 そして、いつまでも 信じられないほどの 大きな 愛に つつまれるのです (終り) |
『ダギーレター』(Dougy Letter)日本語版が
翻訳書のひとつとして仲間入りしたことをうれしくおもいます。
大好きなこの著作が、読まれる方々に好意をもって受け入れられ、
そして、お役に立てるよう願っています。
エリザベス・キューブラー・口ス
Elisabeth Kubler-Ross,MD